勝手にスポーツフィクション小説  1993 日本ダービー その2

ここでもう少し、柴田政人という男について見てみたい。

柴田政人は1948年、青森県生まれ。実家が馬産を行い、叔父や次兄が競馬の騎手であるという環境から柴田政人も自然と騎手を目指した。

しかし、両親は強く反対、騎手になるという志を貫いたが最終的には半ば追い出される形で上京、当時の騎手養成所である馬事公苑の扉を叩いた。

同期は多士済々。武豊以前の通算最多勝利記録保持者であった名手、岡部幸雄。9年連続リーディング達成の天才、福永洋一。1977年、同期の中では最も早く日本ダービー勝利をラッキールーラで果たし、調教師としてもG1制覇を果たした伊藤正徳。共に「馬事公苑花の15期生」と呼ばれる事になる同期達と共に腕を磨いた。

馬事公苑における騎手養成課程は3年である。柴田は開業2年目の調教師、高松三太門下に入り騎手デビューを果たすことになる。ちなみに馬事公苑卒業年次は騎手試験に落ち、1年の浪人の末に合格、デビューとなっている。苦労人の柴田らしいスタートと言えるだろう。

師匠となった高松は1919年生まれ、柴田よりも29歳年長である。特別な人との出会いが、その後の人生の道程に影響を与えるものとしたら、柴田にとっては高松との出会いがその後の「騎手 柴田政人」の生き様を決定づけたものと言える。


柴田にとって初めて出会った名馬は、前述のアローエクスプレスである。高松厩舎で預かったこの名馬と共に柴田は1970年1月京成杯を勝利、デビュー4年目の柴田にとって初めての重賞制覇であった。

スピード豊かなアローエクスプレスはクラシック戦線における関東の最有力馬と評価される。まだ20代前半、野心も血気も盛んな柴田にとってはまたとない機会だ。
「この馬と共に皐月賞、そして日本ダービーを」若者らしい、疑念をどこかへ置き忘れた大きな未来を柴田は想像していた。

しかし、過信は時にして報いを受ける。次戦、皐月賞の前哨戦であるスプリングステークスアローエクスプレスは関西の一番手、タニノムーティエに敗北。レース後、まだ若い柴田にクラシック本番はどうなのかという声が上がりはじめる事は想像に易い。

アローエクスプレスの馬主、伊達秀和もそう考えた。ここで降ろす事で若い柴田がどれだけ打ちひしがれるか。そんな事は百も承知だ。柴田がいくら良い若者でも、愛馬の事を考えなくてはいけない。馬主は時には徹底して合理的にならなくてはいけない、馬主は金をかけて馬を持っているのだ。そして、アローエクスプレスはクラシック本番は当時日本一の名手、加賀武見に手綱を託す事になった。


俺が下手を打ったというのか。柴田は激怒した。描いていた未来を奪われた若者は、若者らしく当然周囲を憎んだ。俺の何が悪いのか。若者らしい純粋な自負心を柴田は師匠の高松にぶつけた。もう騎手なんか辞めてやる。そんな想いすら持ちながら柴田は師匠に詰め寄っていく。

師匠は激怒するだろう。殴られ、そして破門だ。構うものか。そんな想いと共に高松に不満をぶちまける柴田にとって予想外の事が起きた。高松が涙を流している。高松は最後まで柴田の騎乗継続を訴えていたのだ。可愛い愛弟子の為に戦い、そして敗れた高松も又、心に大きな不満を抱えていた。

しかし、アローエクスプレスは伊達の馬で有り、高松の馬では無い。そして、加賀と柴田を比較すればどちらが勝利の可能性が上がるか、高松には当然分かっている。

愛弟子を庇いきれなかった。自らの無力と、それを認めざるを得ない悔しさが高松にこう言わせた。
「誰よりも自分がおまえをアローエクスプレスに乗せてやりたい。しかし、それは馬主にもファンにも許されない。アローエクスプレスは日本一になれる馬だ。だから日本一の騎手を乗せる。悔しかったら加賀を超えてみせろ」

柴田は雷鳴に撃たれたようにショックを受ける。自己評価の中だけで生きるのをやめ、他者の評価を受け入れた時に、若者は大人になっていくとしたらこの時の柴田は正にそれだった。俺は自分で自分が一番アローエクスプレスにふさわしいと評価していたが、周囲はそうでは無かった。。

柴田は引き下がった。しかし高松の愛情が無ければ柴田には伝わらなかっただろう。高松には当然柴田と加賀の腕の違いも分かる、伊達の考えも分かる。しかし高松は柴田を庇った。非合理的である。だが愛情が人を非合理的にするのであれば、その時の高松がそれだ。その愛情が無ければ、柴田は引き下がらなかっただろう。愛情が伝わらなければ真実だろうが事実だろうが人はそれを理解しても受け入れない。この時、柴田にとっても高松にとってもお互いが「特別な人間」となったはずだ。実際、高松は所属馬の騎乗の多くを柴田に任せた。柴田は多くの有力騎手がフリーになっていく中で、高松三太、その死後は息子の邦男の厩舎所属の騎手で有り続けた。



続く